昭和51年07月10日 朝の御理解
御神訓 一、
「我が心で我が身を救い助けよ。」
昨日研修の時に、皆んなに聞いてもらった事の中に、例えば道の教師を志す程しの人ならば、例えもう医者から見たら助からんという病気をした時でも、勿論うろたえる事はない、いやもうお道の教師を志す時に、この全身全霊を神様にお供えをすると言う事を、お誓いしてからの事なんだから、神様が本当に御用に使うて下さるのなら助けて下さるだろう、もう御用済まいと言う事になったら、神様が命を召し上げなさるかも分からない、神様がまだ御用に使おうと思し召すなら。
もう初手からこの命は神様に捧げてあるのだから、と言う様な腹にならなければおかげは受けられないよ、お道の教師が様々な例えば難儀に出会ったとき、それを人に頼みさぁ医者だ薬だといっておる様な事では、折角のいうならば商売をするならもとでがいる様に、その人が助かる事の為の元手が無くなる様なもんだよと、私は昨日そんな話をしたんです。私はこういう時に、それこそ教祖の御教えの中にある様に、ままよという心を出せと、ままよとは死んでもままよの事ぞと。
十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出せと仰せられるから、そのままよという心を出さなければならない時に、うろたえたりさぁ人に頼ったり縋ったりする様な事では、十二分の徳が受けられるはずがない。それでは人も助からん自分も助からん、私はぎりぎり、我が心で我が身を救い助けよと言う事は、そういう事だと思うんです。そこでならお道の教師を志したものだけではありません、いうならば信心の道をいよいよ極めて行こうとする。
神様をいよいよ信じて疑わない、いわゆる信ずる心がいよいよ募って来る、出来て来る事の為には。様々のところを通るけれども、そこを神様一心に縋る時の心の状態なんです。その自分の心の状態だけで自分の心が助かっとる。山下奉文という偉い大将が居られましたですね、あの方は戦犯で絞首刑になられました。その方の参謀をしておられる人も、ぜんぶ処刑にされなさろったそうですが、その中の参謀の文の方。
武の方では無い文の方を受け持っておられたのが、金島の栗屋さんというて、久富先生のところの遠い親戚にあたります。その久富先生のお導き、あそこのお母さんのお導きで、まぁお導きに行かれた訳じゃないけれども、こうやって夫婦共胸の病気で休んでおられますから、一遍話に行ってくれといわれるので私は参りました。栗屋というところです金島の。その方は大変まぁおかげを頂きまして、そりゃ本当に人物も素晴らしい方でした。今横浜の海軍と空軍の、まぁいっちょ相中のなんかあるそうですね。
その部隊の部隊長を今しておられます。その方がだんだんおかげを頂いて、繁々と当時の椛目に病気のおかげを頂いて、して久留米の自衛隊の自衛隊長をなさる時には、ジープでもう必ずお参りがあっとりました。その方がそのう初めて起き上がる事が出来るようになって、そして椛目に初めてお引き寄せ頂かれた時に、お賽銭箱の前であそこは柱が何本もありますからね椛目のお広前は。柱のここにあのう五年の記念祭かなんかの時に、カレンダーがまだ皆さんのところにある所がありましょう。
あのカレンダーが私が神様から頂いた御教えをカレンダーにしたのが祈念品に下がっておるそれが、日めくりに掛かっておりました。それにそのう『死ぬまいと思う心が疲れる』という御教えが出ておりました。もうそれを見られてから大変感動されて、金光様の信心の素晴らしい事は、この御教えだけで分かりますと言うて、お届けされる時に申された事がございました。そりゃもう本当にあの山下奉文さんという方は、大変な度胸の方で、天津での市街戦の時にゃもうその市街戦ですから。
何処から弾丸が飛んで来るやら分からん、もう皆んなこう縮んでから行くのに、それこそ馬上豊にもう頭をこうも下げられなかった鉄砲の弾が来ても。そりゃもう本当に泰然自若と言うかもう本当にまあいうならば、武人の鏡の様な方でしたという話を聞きました。もういつでも命は天皇陛下に捧げてあるというのが、山下奉文さんの精神だったらしいですね、もう自分の身が助かっとられるだから。そういうものを実際目の辺りに見て来ておられますからです、成程死ぬまいと思う心が疲れるんだと。
それからもうあのう良くなられるのはもう本当に、あのうバタバタおかげを頂かれました。死ぬまい死ぬまいと思うから、医者にもかかる、死ぬまい死ぬまいと思うから、薬も飲んでみようと思う、そして良くなるじゃろうか、良くならんじゃろうかと思うその心が疲れる、その心がもう自分を死に至らしめる。だから死ぬまいと思う心が疲れるのですから、死んでもままよという心になったら、心が疲れません。そこに我が身を救い助ける道があるのです。
昨日は吉井の熊谷さんのお孫さんが、亡くなられてのいわゆる祥月命日です、いわゆる帰幽日に当たりますので帰幽祭がございました。もうそれこそお婆ちゃんの真心というか、本当に良い孫を持ち良い祖母を持ちと、まいうなら良い祖母を持ち言う事でしょう。本当に思いを込めてのお願いでしたから、私もその思いで奉仕させて頂きました。そしてまぁ御霊様がおかげ頂いておられる様子を、色々頂いたその中にです、あの方が眼鏡を掛けておったかどうか私も記憶がないですが、掛けとった様に思うですけれども。
その眼鏡を掛けておるのです。と片一方の眼鏡がねもうないんです。こうやってガラスが入ってないんです。どうしたっちゃろうかと思うたらね、もう片一方が正眼になっとるからメガネがいらんというのです。片一方がまだちいとばかり近眼なら近眼というところだろう。という様にです例えば生前は近眼だったのがおかげを頂いて、片一方は正眼になる程しのおかげを頂いとりますという印を見せたのでしょうね、又片一方の眼もおかげを頂くだろういわゆる正眼、そして肉眼、そして心眼と言う様にです。
私はやっぱし私このう次にね、「信心する人は何事にも真心になれよ。」「真の道を行く人は肉眼をおいて心眼をひらけよ。」という続いてのここは御神訓ですよね。ですから我が心で我が身を救い助けるという程しのおかげを頂く為に、先ず信心する人は何にも真心になれよというところ。真の道を行く人は肉眼をおいて心眼を開かせ、心眼、心の眼を開かせて頂く程しのおかげを頂いた時には、もう我が心は我が身を我が心で、救い助ける事が出来るです。為にはやはり真の人を目指さねばならんと言う事になります。
昨日御霊様生前正文さんといいよりましたが、その正文さんのなら御霊様の生活の状態というものを、まぁ色々頂きましたが、その中にならおかげを頂いて、心眼を、肉眼をおいて心眼を開かして、先ず肉眼そのものが正常にならなければならないと言う事です。色眼鏡的見方ではいけんのです、憶測で見たのじゃいけんのです。私はここんところを頂いてから頂いてからですね、肉眼をおいて心眼を開く前に、その肉眼そのものが正眼になる事を精進しなければならないなと。
いわゆる正眼になると言う事は、真の人を目指さなければいけないなと言う事であります。自分が出過ぎるならば、そこをもう少し引っ込せる引っ込み過ぎとるならば、少し出て行くちょうど良いと言う様なところが真です。久留米の初代石橋先生の事を、三代金光様が評されて、久留米の石橋さんこそ真の人ですなと仰ったと言う事ですが、いうならば真の人のいうならば手本の様なお方であったと言う事です。
それはどう言う事からかというと、久留米の石橋さんこそ出過ぎもせず引っ込み過ぎもせずと、いうならばところを通っておられたと言う事であります。真の人とはそう言う事そこを目指さなけりゃいけん。こうするとがほんなこつと思うけれどもと、消極的な人は思うだけで実行に移さない、かと思うとどうも出過ぎて却って人に不愉快な思いをさせたり、迷惑かけたりするような場合の人もある。そこで自分の出過ぎとる引っ込み過ぎとるところを見極めて、そして真の人を目指さしてもらう私は精進努力がいる。
その精進努力をしておるときにです、素晴らしい信心修行が出来る時であります。今日私は御神前に出ましたら、出た途端に頂いた事があのう破れ饅頭というのがありますね、アンコがこういかにももう出そうにそのね。破れ饅頭は分かるでしょう。それこそ破れ饅頭で皮がもてんと言った様な事を申します。と言う事は私は破れ饅頭というものは、美味しいものだと言う風に今日は頂いて貰いたいと思います。
例えば甘い物の好きな人はもうあの破れ饅頭を見たらです、もうそこに餡が見えとるし、もうそれこそ口水が垂れる様な思いをするだろう。それこそ破れ饅頭で皮がもてんと薄いとね、お互いいうならば出過ぎとるか、引っ込み過ぎとるというその中央を、いわゆる真の人を目指すという時にです、真の人を目指すという時にはやはり修行もあり辛抱の時であります。はぁとてもあそこの息子さんなもうちょいと親不孝しなさる、そればってんあちらのお父さんは、信心しんさるから黙って見てござる。
もうとてもとても普通のもんじゃ辛抱出来る事じゃない、と側から見て言われたり、思われたりする位の信心辛抱がいるというのです。その時がそれこそ破れ饅頭じゃないけれども、それこそ一番素晴らしい、美味しい味わいをさせて頂いとる時なんです。黙って治めると言う事はそういう事なんです。脇から見ても腹が立つ様な事を、その本人はじっと金光様金光様で、むしろそれは有り難く受けておられると言う様な様子を、脇から見ると脇のもんの方がはがゆい。
脇のもんの方が側の方がもてんと言う様な時こそ、破れ饅頭の様に美味しい心の状態が出来る、備わって行きよる時なんです。いわゆる真の人を目指すという事はそういう事なんです。真の道を行く人は肉眼をおいて心眼、いわゆる肉眼の前の正眼を頂いて行く時です、いうならば信心がなかっても心の素直な正直な人はです、物事を実に正直に見ます。疑い深い人、例えば言う様な人だったら、ほんな事でも嘘の様にしか思えん、それは正眼でないからです。
だから先ずは真の人を目指す先ずは正眼を願ってです、その正眼からその正眼そのものが肉眼である、だから段々信心させて頂きよるとその肉眼をおいて、心眼が開ける頃にはいよいよ我が心で我が身を救い助ける事が出来るのです。昨日久留米の今村さんが朝方お夢を頂いた。小さい瓶にお水がどんどん流れて来るそのお水を受け取るけれども一向にたまらん、見たところがその瓶の底が抜けとるというのである。そして誰かが言っておるお恵の水はこんなにも、限りなく流れてきておるのにと言うお知らせを頂いた。
おかげというものはそれこそ、降る雨の様に、それこそ流れてくるお水のように、切れる事なしにずっとあるのだけれども、受けものが悪いから底が抜けておるから、一向お水が溜まらんと言うのです。私もそのうもう三十年前の話ですけれども、それと同じ様なお知らせを頂いた。その頃はいろいろお知らせを頂きませんでしたから、お伺いをするとフッと壁にでも寄りかかっとると眠気がくる、眠気がくるとすぐお夢の中で返事を下さりよったです。いわゆる御心眼という様なもんじゃないですお夢です。
ある難儀な問題がございましたから、神様にお願いをして、それから壁に寄りかかって一寸休ませて頂いた。瞬間に頂いたのが、『水道の水がどんどん出とる、洗面器がもう一杯にあふれて、下までも汚しておる時の様な状態である様子』をお夢に頂いた。そん時に私は、ははぁ神様がこの様にしておかげを下さっておるのだけれども、こちらの受けものが細いばっかりに、漏れるだけではない周囲までも汚しておるという事実を、分からせて頂いた時にです。いよいよ受けものを大きくしなければいけないな。
心を大きくしなければいけないなと言う事に気づかせて頂いて、一生懸命心を大きくなる修行をさせて頂いた。もう御心眼御心眼というか霊眼ですね、いろいろお知らせを頂く様になってから、やっぱり椛目の初めの頃でした。あるお願いをさせて貰いよったら、大きなこんな大きなまな板の上に、そのまな板一杯の大きな鯉がおるのです。それを私が料理しようと思うておるのですけど、余り元気が良いから抑えきらんと言う所を頂いた。お徳いうならば鯉と言う事はお徳と言う事でしょう。
けれども神様はこういう大きなお徳を下さろうとしても、こちらにそれを頂きこなせれる徳を、頂きこなせれる力を頂かなければ値打ちはない。そうですお金はいくら持っとっても、そのお金を使いこなしきらなければ何ぁんにもなりません、使いこなせれる力がいるのです。だからそのこなせるまでの力を頂くその間が素晴らしいそれこそ破れ饅頭です、皮がもてん、まぁだボールの様なですようと目立たない位な辛抱が出来ておる時にです。いよいよ受けものは大きゅうなって行きよる時です。
まぁよう辛抱がでけておる時にですだから神様にそしてお知らせを頂いてです、本当に自分の信心が小さい心がこぅまいから、一寸した事ががもう顔色が変わる、一寸した事でもう心配になる。そりゃ心配にもなろうけれども、顔色が変わる位にあろうけれども、そこを今こそ心を大きくして行く辛抱だという辛抱力の信心が身について行く頃がです、周囲から見てから、ほんにあの人は馬鹿じゃなかろうか、側のもんがはがゆいと人からいわゆるような時に、一番素晴らしい。
それこそ破れ饅頭的な美味しい味わいが心に出来ていっとる時です。そして肉眼をおいて心眼が開ける時にです、もうそれこそ世の中ががらっと変わってくるです。物事が全部変わってくるです。見方が変わってくるんです。いうなら本当の事が分かってくるんです。私ばかりがどうしてこの様に難儀が続くだろうかと、それが肉眼的見方がす、心が開けてまいりますとです、神様がこの様にして、さぁ太れさぁ研けさぁ大きうなれというて、神様のいうならば神愛のいうならば愛の鞭だと気が付くのです。
だから苦しいけれども有り難いというお礼の心が生まれます。そのお礼の心が生まれて来る、その時が一番心の状態が、真の人に近付いて行っておる時なんです。真の事が真として分かる時なんです。難儀を難儀と感じんじゃなくて難儀は難儀と感じるけれども、その難儀が私だけがどうしてこげん難儀せなんじゃろうかではなくてです、その難儀こそが神愛だと、その難儀こそが私を育てて下さるんだ、受けものを大きくして下さるんだという頂き方が出来るから有り難いのです。
もう既に我が心で我が身を救い助けとる姿です。私だけがどうしてこげん難儀せんならんだろうかと言うとる時には、我が心で我が身を救う時生んでおる時です。同んなじ難儀であってもです、本当の事が分かる真の事が分かるとです。神様にお礼をいうより外にないのです。もうそこには我が身を救い助けておるです。そういう心の状態が一つの受けものとなった時にです、頂けるのが限りないおかげの世界であります。『神の恵を人知らず親の心を子知らず』。
いうならば神の恵を人知らずいや神の恵みをです、知らない間が肉眼の時です。神の恵と自分で分かる肉眼を持って見れば、それは神の恵と思わんです自分が不幸に見えるけれども。心の眼が開けてくると神の恵を恵として受ける事が出来る。その神の恵の中には痛い事もありゃ、いうならば苦しい事もありゃ楽な事もあるけれども、その苦しい事その事が神の恵みと悟れた時にです、いよいよ受けものが神様が限りなくおかげを下さる、いうならば今村さんが頂いとられる様にそこに受けものが出来るという時である。
神の恵を受け止める事が出来る時である。今日は一連したこの御神訓から『我が心で我が身を救い助けよ。信心する人は何事にも信心になれよ。真の道を行く人は肉眼をおいて心眼を開けよ。神の恵を人知らず、親の心を子知らず。』親の思いが分かりゃ、親の思いに添わにゃおられない、神様の恵が恵として分かれば、今まで不平に思うておった、不足に思うておった事も、ただ有り難しという心に変わって来る、その有り難しという心がおかげを呼ぶのです。
どうぞ。